2006年那覇へ…34

ポンコツ34@那覇

2006年03月24日 18:45

敷地内にある兵士の慰霊塔に手を合わせ、資料館に入った。ここで入場券を買う。壕は別にあるのかと思ったら、この資料館から入っていくのだとか。
壕へ行く前に資料を眺める。去年(2005年)の正月開けに糸満市のひめゆり資料館と平和記念館とを訪ねたが、その時の記憶がよみがえってくる。
とにかく、凄惨を極めた沖縄での地上戦。
本土(内地とも言うが)の日本人(大和人とも言うが)も沖縄を訪問して沖縄の歴史や現実を知るべきだと思う。
今回の旧海軍指令壕跡も、実にリアルな戦争の爪あとが残っている。
階段状になっている壕を下っていく。今は公開されているから階段とスロープ、壁がきれいに整備されているが、戦争当時はただの暗い穴を進んでいっていたのだろう。約25メートルくらい下がってからは、複数の方向に道が分かれ、ある部屋は作戦室になっていたり、ある部屋は救護室、または会議室になっていたと、説明書がある。
戦況が不利になっていき、この壕は負傷した兵士があふれ、座る場所を確保するにも難儀し、立ったままの睡眠を余儀なくされる兵士も多かったそうだ。また、救急道具も医薬品も不足して満足な治療はできなかったことから、この壕では阿鼻驚嘆・地獄絵巻の惨状が繰り広げられていたとのこと。
今の時代に感謝をしないといけない。


海軍総司令官の自決部屋もほぼ現状で保存されていた。
血痕の跡、爆薬の散弾跡もリアルで残っている。
海軍総司令官は、勝機がないことを確信し、自決するのであるが、その自決前に、本土(内地)の幹部宛に渾身の電報を送ったとのこと。その内容は、沖縄が米国に勝利する可能性は0であること、兵士のほか、沖縄の一般庶民まで日本人の誇りを持って立派に戦ってきたこと、戦争終結の際は、唯一の地上戦の舞台となった沖縄及び沖縄人に対し、生活復興支援において格別の配慮をして戴きたい…とのメッセージであったそうだ。
その電報の内容は沖縄人の胸を強く打ったとのことであるが、この場所で自分もそのメッセージを読んでみると、胸を打たれずにはいられない。
壕を出た。敷地内は高台に位置しており、那覇や豊見城の街並みが良く見える。ここが悲惨な地上戦の舞台になったとは考えにくい、今の美しき沖縄の風景であった…。
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